吉沢牧場長の想いと意地。

震災から殺処分支持に至るまで。

震災当時吉沢牧場長は出先で、上下左右まるで回転運動の様なこれまでに体験した事の無い地震が襲った。
牧場が心配になり、急いで戻ると場内は停電して牛に水をあげる為のポンプがとまっていた。
牛に水を飲ませる為に発電機を起動させ、配管に細工をし落ち着いた時にカーナビのワンセグテレビでニュースを見ると原発の様子がおかしいと報道されていた。

震災翌日の朝「警察部隊がヘリで原発上空を撮影し、その映像を衛星経由で県警本部に送る為の中継地点として場所を貸して欲しい」と牧場を訪れたが同日、原発が爆発し県警本部から部隊に撤退命令が出され撤退し始めた。
その際 部隊は吉沢場長にこう告げた。
「とうとう来るべき時が来た、政府は情報を隠している。ここから逃げた方が良い。」
当時何のことか分からなかったが今考えると、後に問題となるSPEEDIの事ではないかと吉沢牧場長は推測する。

その後避難指示が出るも牛の事が気がかりで逃げ出せずに居た吉沢牧場長は原発が爆発する音を二度聞き、双眼鏡で覗いてみると自衛隊のヘリが水(海水)をかけ、白い煙(水蒸気)が上がるところを目の当たりにした。
「自衛隊や消防隊は死ぬかもしれない。この町はもう終わりだ・・・」そう思った。
そんな決死の思いで任務に当たっている中、東電は撤退要請を政府に求め逃げ出そうとしていた。
本来収束の為に前線に居なければならない東電社員が逃げ出そうとしてる事に吉沢牧場長は怒りを覚え東電本社へ抗議に行く事を決意した。
その時には既にガソリンが手に入らなかったが牧場内にあった廃車のガソリンタンクに穴を開け、それを洗面器でうけ昔宣伝活動に使っていた車に入れ東京に向かおうとした。
出発する際、二度と牧場に戻る事ができないかもしれない。
そう思い、今必要なのは原発で懸命に作業をする自衛隊・消防隊の様に団結し決死の覚悟で立向かう事だ。
そう思い牧場のタンクやショベルカーに「決死救命、団結」と書いた。
その言葉を思いついた時、何故か震えが止まらなかった。

12年4月17日 線量計を持つ吉沢牧場長、タンクの前で撮影。

東電本社・農林水産省・街宣許可を取る為丸の内警察に立ち寄った。
東電本社はその後も何度か訪れ、牧場で栽培した4万ベクレルに汚染された椎茸を土産に持っていった事もあった。
牧場に帰ってからも牛の世話をし続けていたが原発20キロ県内が警戒区域に設定され、それと同時にバリケードが設置された。
それでも餌を与えない訳にはいかない為、裏道から抜けたりバリケードをずらして中に入り世話を続けていたがある日警察に見つかり始末書を書かなければならないこともあった。
始末書の内容に「二度とこういう事はしません」とあったが牛の餌やりの為に守れないと吉沢牧場長は斜線を引き消した。
その後も始末書を5~6何枚書いた。
警戒区域で給餌を続けているとマスコミがその事を聞きつけ記事にした。
それを枝野官房長官が目にし「警戒区域に立ち入って餌を与えている者が居る」と発言し、それと同時期に畜産業界の風評被害に繋がると警戒区域の家畜に対し殺処分指示が出された。

 

殺処分反対の意地

権力に対し、真っ向から反発する学生運動の時代を生きた吉沢牧場長、その父は満州開拓団の一員だった。
満州開拓団が入植した時、日ソ中立条約を破ってソ連が参戦する情報を掴んだ関東軍は本来日本国民を守らなければならないにも拘らず大陸から逃げだし、父のいる満州開拓団は国によって見捨てられ「棄民」となった。
捕まった者は捕虜となり過酷な強制労働を強いられた。
吉沢牧場長の父は何とか生存帰国をはたし日本で開墾をはじめ、その土地を売ったお金で今の牧場の土地を手に入れた。
言わば牧場は父の形見でもある。
原発が爆発した直後、政府はSPEEDIの情報を公開せず避難誘導を怠り避難民は国から見捨てられ棄民となった。
吉沢牧場長は今回の事が父の居た満州開拓団と被って見えた。
国策で進められ国に捨てられた。
そんな国の出した殺処分には従えない。
そして吉沢牧場長は殺処分反対・原発反対運動をはじめた。

13年2月16日 渋谷スクランブル交差点。

 

警戒区域の現状

被曝している家畜は出荷することも出来ず、警戒区域のため餌を与える事もままなら無かった。
希望の牧場周辺には3500頭の牛が居たが、1500頭は餓死で死んだ。
近くの牛舎を見に行くと牛がほぼ全滅し、生き残った牛はミイラの様にやせ細り悲鳴のような鳴き声をあげて助けを求め、目を背けたくなる地獄のような状況だった。
野良となった家畜は空き家となった民家や畑を荒らし、交通事故も30件ほど起き問題になった。
近くの乳牛農家は出荷出来ないが牛の為に毎日乳を絞っては捨てを一ヵ月繰り返し、あまりの苦痛に自殺した。
そこには殺処分せざる得ない事情があった。
そして殺処分に従った農家の牛、1400頭が殺処分された。
中には殺処分しなかった吉沢牧場長のような農家に対し、平等に殺処分してもらわないと従った農家は馬鹿を見るじゃないかと農家内でいがみ合いも起きた。

12年8月27日 朝日新聞大阪本社にて山田直行が展示をした際、吉沢牧場長をお招きし講演して頂いた時の様子。

 

牛の問題ではなく命の問題

私は意地として殺処分は出来ない。だが、殺処分の道を選んだことも正しいと思う。
これは牛の問題では無く命に対しての問題であり、答えや正しさは幾通りもある。
私の命は年齢からして後20年くらいだと思う。
残りの人生をかけて国・東電と戦い、人々に訴え、心に言葉の楔を打ちたい。
これは牛の問題ではなく、牛の命を通した人間の問題だ。
命の問題は大勢の人に考えてもらいたい。
そう熱く語った吉沢牧場長の目には涙が浮かんでいた。