2011年3月11日
福島第一原発は東日本大震災の地震津波により多大な損傷を負い、全交流電源喪失となり水蒸気爆発を起こした。
それにより放射性物質が飛散し、日本社会・経済どころか国際社会に甚大な影響を与える事故となった。
牛の亡骸の写真も掲載しております、ご注意ください。
福島第一原発から約14キロ地点、福島県双葉郡浪江町に吉沢正巳氏が牧場長を勤める有限会社エム牧場 浪江農場と言う330頭の和牛を預かり繁殖、肥育を手がける牧場があった。
原発が爆発し初の出荷日、被爆しているかもしれない牛は要らないと出荷先から断られ警戒区域に設定された場所にある牧場は餌を上げに行くこともままならず、農家は家畜を敷地外に放すか牧場内に繋ぎ止め餓死をさせるしか方法が無かった。
警戒区域で生きる家畜は風評被害の元となることや、野良となった家畜が民家や畑を荒らし、時には交通事故を起こす原因ともなり問題の種となった。
その事から政府は農家に対し家畜の殺処分指示をおこなったが、家族同等に愛情を注いできた多くの農家は意味無く殺すことは出来ないと殺処分に反対。
その中でも吉沢正巳氏は殺処分を行わなくとも、被爆した牛でも被爆実態の研究・調査の検体として生かす価値があると終生飼育を訴え、殺すのではなく生かす為の希望はあると330頭の牛を生かすべく有限会社エム牧場 浪江農場は「希望の牧場 福島プロジェクト」を立ち上げた。
初来訪、警戒区域と希望の牧場。
初めて希望の牧場に訪れたのは福島第一原子力発電所が爆発して一年が過ぎたあたりの2012年4月。
震災直後から宮城、岩手の沿岸部は取材をしていたが福島県は初めて。
どうしても警戒区域、希望の牧場を自分の目で見たくて線量計と睨めっこしながら牧場へ向かった。
牧場に訪れた時はそれほどの予備知識も無く、更に観光地では無い牧場に行く事も初めて、全て初めての状態だった。
牧場内に入ると大きな牛達がこちらを見ていた。
かなり温厚な動物の様で近づくと逃げるほど、稀に興味があるのか近づいてくる牛もいる。
吉沢牧場長と事務局長は牧場の業務で忙しそうだったので迷惑にならない程度に牧場を見て回ると、そこはまるで生と死が圧縮された場所だった。
産まれてくる命、死んでゆく命、生ききれなかった命。
産まれたばかりだろう仔牛やミイラになた亡骸があちらこちらで目に付いた。
それ以外にも皮膚病を患った牛や、痩せ細った牛も目に付いた。
話を聞くと全ての牛が平等に食べれる訳ではなく、餌にありつけずに餓死してしまうそうだ。
お金も無く餌の確保が出来ず、牧草のみを与えているも牧草だけでは栄養が偏り小牛は栄養失調で死んでしまう事もあるらしい。
毛が抜けてしまっている牛は良くある皮膚病らしいが、治療するにも費用の問題や警戒区域であるがゆえに獣医が入れない、牛を警戒区域から出す事ができない問題があるらしい。
暫くすると、近くの牧場にロールサイレージ(牧草を丸めた物)を届けるとの事で同行した。
サイレージの荷下ろしを手伝ってたのでこのあたりの写真はほぼありません。
逆に言えば二人でするにはかなりの重労働。
帰り道、吉沢牧場長のはからいで少し寄り道。
原発に近づくにつれ作業員を乗せた車とすれ違うが車内は防護服と顔面マスク姿。
線量の高い場所では所持していた線量計は計測不能になり、吉沢牧場長の線量計をお借りすると車内で32.38μSv/hでした。
車から降りて地面に近づけると100μSv/h越える所もあるそうだ。
因みに大阪の難波駅前で大体0.08μSv/h、ここがどれほど線量の高い場所か分かると思う。
ただ、放射性物質は目に見えなければ痛みも臭いも無い。
線量計を見て緊迫した感じになってしまうが線量計を持っていなければ(放射性物質が有る事を知らなければ)、のどかなでとても良い場所だ。
牧場に着く頃には日が暮れ、夕食の席でこれまでの活動や吉沢牧場長の思いを聞く事が出来た。
続き記事。「吉沢牧場長の想いと意地。」